私が文筆業にかかわったきっかけは、米国の医学小説「インフォームド・コンセント」の翻訳だった(学会出版センター 1999年)。

 「インフォームド・コンセント」なる言葉が日本の医療界に普及し始めたのは1980年代以降のことであるが、ややもすると「同意書にサインしてもらう手続き」あるいは「同意書の書類そのもの」の意味に使われる傾向が強く、「医療者と患者が協同で治療プランを作成するプロセス(shared decisionを形成するためのプロセス)」であることが十全には理解されていない。

 私が翻訳した小説は、主人公の医師と患者(医者嫌いの弁護士)が、二人で医学部図書館に出向き、病気についての文献を協同で調べたことで命が救われる、という筋立てであり、「協同作業のプロセス」であることが小説形式のケース・スタディで学べる内容だった。よせばいいのに翻訳を思い立った理由は、日本におけるインフォームド・コンセントの理解を深めたかったからに他ならない。

 10年がかりの翻訳が完成した後、出版先を探す過程で「医学界新聞」(医学書院)での短期連載を勧められたのは1996年のことだった。まさか、翻訳がきっかけで始まった連載が2014年まで続くことになろうとは私自身夢にも思っていなかった。

 

 「インフォームド・コンセント」は「患者の自己決定権」を尊重するために編み出された臨床現場での工夫といっても過言ではなく、自己決定権の重要性については、医学界新聞の連載・著書・講演を通じて何度も強調してきたところである(例えば、拙著 医学書院刊『続 アメリカ医療の光と影』)。「患者の自己決定権」の概念は、今や日本の法曹界にあっても広く受け入れられるにいたり、たとえば、医療過誤訴訟の判決で、「説明義務を尽くさなかったのは患者に対する『債務不履行』であり、その結果患者は自己決定権を行使することができなかった」とか、「患者が自己決定権を行使することを妨げたのは『不法行為』である」とか書かれることが珍しくなくなった。換言すると、(自己決定権をその基礎とする)「インフォームド・コンセントの法理」が広く社会及び法曹界に受け入れられるようになっているのである。

 

 大原における「信じがたい異常体験」の一つが「患者の自己決定権」を尊重しようとしないカルチュアであった。たとえば、私が赴任して間もない頃、「ムンテラというのは患者を誘導するためにするのだ」とお説教し、大原流医療「倫理」を私に強制しようとした医師がいた(年配の医師ではなく私よりはるかに若い医師であった)。

 ここで医療関係者以外の読者のために解説を加えると、「ムンテラ」とは和製独語のMundtherapieを略した言葉である。「口による治療」の意であるが、まだ「患者の自己決定権」が尊重されていなかった時代に、医師達が、診療について患者や家族を自分達の思い通りに誘導することが当たり前だったことを象徴する言葉だった。「素人である患者の代わりに、玄人である俺たちが決めてやる」というパターナリズムに毒された考え方を反映した言葉だったのである。

 今の日本に、「ムンテラは患者を誘導するための物」と、時代遅れの医療を実践する医師がいたことすら驚きだったが、この医師は、私の受け持ち患者を相手に自己決定権を無視したムンテラの見本まで示して見せた。私が「DNR (Do Not Resuscitateの略。急変時に蘇生処置を行うべきか否かを患者・家族に決めてもらう段取り)」について、家族に「今すぐ決めなくてもよいからゆっくり考えるように」と説明していた最中に、「何をまだるっこしいことをやっているんだ」と言わんばかりに横から割り込むなり、「気管挿管なんかしたら何ヶ月も何年も外れなくなっちゃうよ、植物状態になって何年も生きることになるんだよ」と家族をおどしつけて無理矢理DNRについての承諾を得てしまったのである。「『ムンテラ』の見本を見せていただいてありがとう」と私は皮肉の意を込めて「礼」を言ったが、「患者・家族を脅しつけて『誘導』するムンテラ」の見本を示して得意げだったこの医師に、私のsarcasmが通じなかったのは言うまでもない。

 この医師の他にも、「経管栄養を入れなかったら死んでしまうよ」と家族を脅しつけたり、「家族が告知するなと言っている」という理由で本人の意思を確認しないまま患者に癌を告げなかったり、「DNRの承諾をくれない」家族を「クレイマー」と非難したり、「家族を連れてくる約束を破ったからもう診ない」とその後の診療を拒否したり・・・、在職中、大原流医療「倫理」の実例は多々目撃した(私が目撃した実例は「内科」に限ることをお断りしておく。大原の他の科ではまともな医療が行われていたと信じたい)。

 

 リスクマネージメントの観点から見たとき、患者の権利を無視する医師は、「病院に甚大な害をなしうる『危ない』存在」と見なされなければならない。患者に訴えられるリスクが増すだけでなく、「インフォームド・コンセントの法理」が広く社会及び法曹界に受け入れられている現状を考えたとき、「債務不履行」や「不法行為」を指摘されて高額の賠償金が求められる根拠を与えかねないからである。

 ところが、私の在職中、大原の経営陣が、こういったリスクマネージメント上の由々しき問題に頓着する様子は一切なかった。経営陣の関心は「入院数を増やす」ことにしかなく、目の前で「危ない」医療が行われている現実があるというのに、医療倫理について具体的な改善策が指示されることは金輪際なかったのである。

 例えば理事長は、常日頃「個々の医師の貢献度は受け持ち患者数で評価する」と公言してはばからなかっただけでなく、私の在職中、医師達に対し、連日のように「入院患者を増やせ」と叱咤し続けた。「営業の尻をひっぱたけば売り上げが増える」という、他の「ご商売」と同じやり方を病院経営にも適用して医師の尻をひっぱたいたのだろうが、医療について「根本的な勘違い」をしているとしか思えなかった。

 というのも、私も含めて普通の医師は、患者に入院を勧めるか否かは入院の適応があるか否かで決めるのが原則であり、経営者に尻をひっぱたかれたからと必要もない入院を勧めるようなことは絶対にしないからである。もし経営者が「入院を増やせ」と言った途端に入院が増える病院があったとしたら、そういったところには、しかるべき機関が監査に入って当然だろう。(この項続く

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